人とのつながりで順調に事業拡大
ダイワ・エム・ティの創業は1916年。事業は船舶エンジン用木型製作から始まった。同社は戦後、製紙工場の機械の木型を作るようになり、拠点を創業の地である清水市から富士市に移す。自動車分野に進出するキッカケは移転先に日産自動車の吉原工場があったことだ。車が続々生産されていくのを目の当たりにし、これからは車の時代だと実感して自動車の型製作を開始した。最初は自動車を作るための機械の型から始めた。職人気質の丁寧な型作りが評価され、事業は拡大していった。その後2001年にはデザイン事業に参入し、2009年には内装設備機械・機械治具の設計製造事業を立ち上げた。
ダイワ・エム・ティがこれまで樹脂型製作、デザイン、機械製作と順調に事業を拡大できた背景には「人とのつながりがあったことが大きい」と和久田氏は言う。同氏は3DCADが普及する状況を見て樹脂型の将来に危機感を抱いた。もともと自動車部品の上流から下流まで手掛けたいと思っていた和久田氏は、今後この業界で生き残るにはデザイン事業に参入することが不可欠だと考えた。
ちょうどそのころ大手メーカーでデザイン開発を担当していた人が、幅広い仕事を手掛けてみたいとダイワ・エム・ティに入社した。和久田氏はその人にデザイン開発部の部長として同事業を任せた。冒頭で紹介した秋田新幹線やエリーカなどの案件を獲得できたのも、そのデザイン開発部長が大きく貢献している。さらに大手自動車メーカーを退社した優秀なデザイン・エンジニアもスカウトでき、2007年顧客に近い厚木にデザインセンターを開設した。
内装設備機械を製作できるようになったのも人とのつながりがあったからだ。「大手部品メーカーの機械エンジニアで管理職になっていた人が、ダイワ・エム・ティで現場の仕事をしたいと入社してくれた」(和久田氏)。内装設備機械の事業はその人の力よって立ち上げられた。和久田氏はダイワ・エム・ティが優秀なエンジニアをひきつけられた理由も「長年自動車業界に携わってきた中で、丁寧な仕事が評価されたからだ」と分析する。
「進化するものが生き残る、企業は時代に即して変わらなければ生き残れない」
ダイワ・エム・ティ代表取締役社長の和久田惠子
和久田氏は創業家の3代目として2006年に代表取締役社長に就任した。就任3年目にはリーマンショックを経験した。「仕事がパタパタとなくなっていった。そこで従業員にはリストラしない代わりに給料の減額をお願いした」と、同氏は苦しかった当時を振り返る。そうした経験を通して「いま当たり前のようにある仕事が、もし無くなったらどうなるのか。常にリスクと対策を考えて会社を経営するようになった」と、和久田氏は語る。
「強いものが生き残るのではない。進化するものが生き残る。企業は時代に即して変わらなければ生き残れない。自動車業界がどの方向に向かって行くのか。そこで何が求められるのか。触覚を研ぎ澄まして置くことが重要だ」(和久田氏)。こうした信念の下、和久田氏は今後もダイワ・エム・ティを進化させ、同社を新たな時代へと導くだろう。